2020年6月8日月曜日

Bouldering is not about Olympics!!

・「競技」と「スポーツ」

「sport」という単語を日本語に訳す際、様々な説がある。
その定義の仕方について議論しようとするとそれだけでものすごい時間と熱量が必要になるので、ここではそれは行わない。
今回は「スポーツ」というカタカナ語をざっくりと「身体運動の総称」と定義する。
もっと詳しく言うと「日常生活を送る上ではまずかからないであろう負荷を身体にかける身体運動の総称」である。
(あくまでも今回この記事の内容の中ではそう定義するというだけです)
そして「競技」という単語の意味としては「他者と技を競い優劣を争う行為」と定義し、y訳にはsportではなくcompetitionを用いるということにする。
そう定義した上で、これから「ボルダリング」と「ボルダリング競技」というものについて思うところを書いていく。

・競技ではないスポーツ、スポーツではない競技

先の定義をもう少し補強する意味で、いくつかの例を挙げる。
まず「競技ではないスポーツ」とは何か?
例えば「ジョギング」「ウエイトトレーニング」広く言えば「ラジオ体操」なども「日常生活を送る上ではまずかからないであろう負荷を身体にかける身体運動」にあたるので「スポーツ」と言えるが、
「他者と技を競い優劣を争う行為」にあたらないので「競技」とは言えない。
こういったスポーツのことをここでは「非競技スポーツ」と呼ぶ事にする。
逆に、スポーツではない競技とは何か?
例えば「囲碁」「将棋」「チェス」「ビデオゲーム」などは「他者と技を競い優劣を争う行為」にあたるため「競技」であると言えるが、「日常生活を送る上ではまずかからないであろう負荷を身体にかける身体運動」を伴わないため「スポーツ」であるとは言えない。
こういった競技のことをここでは「非スポーツ競技」と呼ぶ。
(ここらへん大いに突っ込みが入ると思うけど、前述したように『今回はそう定義する』ということで納得して下さい。「eスポーツ」とか「マインドスポーツ」とかいった言葉があることも重々承知しています)



・非競技スポーツの競技化

先の例で「ジョギング」「ウエイトトレーニング」「ラジオ体操」を「非競技スポーツ」と呼んだが、ではこれらの例が全面的に競技としての性質を持ちえないかと言えばそうではない。
例えばジョギングを二人以上で行い、「どちらが長く走っていられるか」「どちらが早く目標距離に到達するか」などを競い出せばたちまちそれは競技と化す。
もともと競技として発生したのではないスポーツも、一定のルールを定めて競い合う他者を用意すれば競技化することができるのである。
これをここでは「非競技スポーツの競技化」と呼ぶ。

・競技スポーツ内の非競技的側面

例えば「サッカー」だったり「野球」だったりは、そもそもの成り立ちからして基本的に「競技スポーツ」である。
しかし「フリースタイルリフティング」としてひたすら芸術的にリフティングするといった行為は「非競技スポーツ」と言えるし、河原でキャッチボールをすることなんかも「非競技スポーツ」と言えるだろう。
バッティングセンターでひたすら打ち込むのも「非競技スポーツ」だ。
100%競技としての側面しか持たないスポーツというのはまず存在しないと言える。
前項の通り、根本が「非競技スポーツ」として発生したスポーツであっても一定のルールを定めることによって競技化できることから
100%競技としての側面を持ちえないスポーツというのもまた存在しない
サッカー・野球あたりは競技としての側面が大きいが、ボルダリングはそれらと比べて競技としての側面は小さいとも言える。

・ボルダリングとはどんなスポーツか

まず「ロッククライミング」というのは本来「登山」の際難所を攻略するためのためのいち手段であった。
「登山」そのものが今回の定義によれば「スポーツ」と言えるので、「ロッククライミング」もまた「スポーツ」であると言える。
登山の手段として始まったロッククライミングに、様々なルールや縛りを加えることでフリークライミングというジャンルが生まれ、そのさらに一部として「ボルダリング」がある。
「ボルダリング」がひとつのジャンルとして確立されたとき、その時点では「ボルダリング」は「非競技スポーツ」であった。
「ボルダリング」はその成り立ちとしては低い岩で行なう練習行為という側面が強く、
しかしそこから低い岩で行うからこそより難しい技術や強い能力を試しやすいことから、一つのジャンルとして立場を強固にしていった。

・ボルダリングとボルダリングコンペ

普通「野球しようぜ!」と言う時、それは「試合形式で競技としての野球をしよう」という意味になる。
いちいち「野球競技しようぜ」とは言わない。それは野球というスポーツを指すとき、人は野球の競技的側面を即座にイメージするからだ。
しかし「ボルダリングしようぜ!」と言う時「試合形式で競技としてのボルダリングをしよう」という意味にはそうそうならない。
試合形式でボルダリングをしたかったら「ボルダリングコンペをしよう」とか「ボルダリングコンペに出よう」と言うのがより自然だ(この際むしろ「ボルダリング」を省いて「コンペに出よう」と言うほうがさらにより自然)。
このことからも、ボルダリングというスポーツが本来「非競技スポーツ」であることは明確である。
ボルダリングというジャンルにおいて「競技(competition)」を行うというのは、特殊な状況であると言える。

・競技スポーツが目指すものと非競技スポーツが目指すもの

競技スポーツが目指すものとは何か?という問いの答えはシンプルに「勝利」である。
「勝利」というモチベーションがあるからこそ人は汗や泥にまみれ、筋肉を痙攣させ、歯を食いしばり顔をゆがませながらもその競技に打ち込むことができる。
そしてその「勝利」を通じて人生の糧や栄誉や自己満足を得る。
では非競技スポーツが目指すものとは何か?
それは「達成」である。「達成」を通じて人生の糧や栄誉や自己満足を得ている。
何かを「達成」することが「勝利」と同等かそれ以上のモチベーションになっている時、人は競技スポーツと同じように非競技スポーツに打ち込むことができる
しかし非競技スポーツにおける「達成」が、苦痛を堪え競技に打ち込むことができる程のモチベーションとなることは稀だ。
故に「勝利」以外がそのモチベーションの強さを実現し得ないと信じる人も多く、そういった人は「競技にあらずんばスポーツにあらず」とみなし「非競技スポーツ」をすべて「遊び」というくくりの中に放り込んでしまう。

・「達成」の魅力

ボルダリングは非常に「達成」が解りやすいスポーツだ。
「目の前の岩を登りきる」
「目の前の課題を登りきる」
その目標を達成することだけをモチベーションにして努力することができる。
故にその達成は純粋で、簡潔で、色あせない。
短期的な目標と短期的な達成がある(今日3級課題を登りたい→登れた!)
中期的な目標と中期的な達成がある(今シーズンは忍者返しを登りたい→登れた!)
長期的な目標と長期的な達成がある(いつか三段を登れるようになりたい→登れた!)
様々な目標と達成が「完登」というシンプルでハッキリとした形で現れる。
達成というモチベーションの結晶が目に見える形で断続的に手に入ってくる。
そこがボルダリングというスポーツが持つ大きな魅力のうちの一つだ。
他の非競技スポーツはボルダリングに比べ「達成」が解りにくくまた途切れやすいものが多い。
例えばジョギングにおける達成とは?
10km走りきる。3kg痩せる。そういった達成は確かに得られるがそれは断続的にステップアップしていきにくい。
走ることでより深いモチベーションを継続的に得ようとしたらやはりタイムを計測したり他者と一緒に走ったりして「競技化」していくしかなくなってくる。
ボルダリング歴がある程度長い人で、ボルダリングをしていない人から「大会(試合)とか目指してるんですか?」と聞かれていない人は居ないだろう。
そして「大会出場や勝利を目的としているわけではない」と答えて、質問者の首を傾げさせることになる。
「じゃあ何のためにそんな怪我したりキツイことやったり恐いことやったりしてるんですか?」と。
スポーツというのは基本的に肉体に負荷をかけるものである以上、必ずストレスが生じる。
そのストレスを上回るモチベーションが無ければ人はスポーツを続けられない。
「勝利」がそのモチベーション足り得るというのは多くの人に理解してもらえるが。
「達成」がそのモチベーション足り得るというのは多くの人とって想像しづらいことなのだろう。
故に、多くの人にそのスポーツの魅力を理解してもらい、多くの人にそのスポーツに打ち込むためのモチベーションを提供するために「非競技スポーツの競技化」は必然的に行なわれていく。
しかし我々クライマーは知っている。
「勝利」など無くても「達成」だけですべてが報われる感覚を。

・非競技スポーツの競技化によるメリットデメリット

前項に書いた通り、非競技スポーツの競技化による最大のメリットはそのスポーツの普及に役立つということだ。
普及されなければそのスポーツは発展せず、廃れていき、やがて文化も薄れていく。
それを防ぐためにはやはり競技化によって普及を加速させるというのは必然的な考え方だ。
ではデメリットは何か?
それは各スポーツによってそれぞれ様々なものがあるかと思うが、ざっくり共通して言えるのは「当初の理念の喪失(のリスク)」だ。
「競技」という側面は非常に煌びやかで解りやすく、人の心に訴えかけてくる力が強い。
そうなるとそのスポーツの中の「非競技」の部分が重要ではない部分であるとみなされてしまうという危険性がある
例えばフィギュアスケートが芸術性と競技性の狭間で様々な熱い議論が交わされていることはある程度スポーツに興味がある人なら知っているだろう。
フィギュアスケートも元はと言えば非競技スポーツであり、それをなんとか競技として成立するようルールを整備したはずだが、そのルールがそもそも適切なのかどうなのか?というような議論は未だに根強く残っている。
それにも関わらず「オリンピック金メダリストこそがあらゆる意味で世界で最も優れたフィギュアスケーターである」と多くの人は殆ど疑いの余地なく信じてしまう。

・オリンピック種目にスポーツクライミングが入ることの不満(あるいは不安)

前項までを読んで貰えば伝わると思うが、筆者はオリンピック種目にスポーツクライミングが入ることについて比較的否定的なマインドを持っている。
それは自分がボルダリングを純粋に「達成」をモチベーションとして打ち込んできたからだし「勝利」無しに「達成」のみでモチベーションを保ち得るこのスポーツに大きな魅力を感じているからだ。
ボルダリングが「勝利」がなくてはモチベーションを保てない程度の魅力しかないスポーツだと思って欲しくないのだ。
「オリンピック」というものの力はたぶん多くのクライマーが思っているよりずっと強い。
「オリンピック金メダリスト」の肩書の輝きは計り知れない。
次のオリンピックを経た後では、多くの人は
「オリンピック金メダリストこそがあらゆる意味で世界で最も優れたロッククライマーである」と信じてしまうだろうし
「ボルダリングの最終目標はオリンピックで金メダルを獲る事」と信じてしまうだろう。
しかしそもそも、ロッククライミング、ひいてはスポーツクライミングは「非競技スポーツ」であり「クライミングコンペ」というのはクライミングを競技として成立させるために後付けでルールを付け足していったことで成立させたものだ。
そこがもともと「競技」としてスタートしたスポーツとは違う。
なのでコンペルールは未だにクライミングの登攀能力を公平に競うルールとして完璧なものなのか?という疑問は残り続けているし、もっと言えばオリンピックの「コンバインド」という競技方式に心の底から納得しているクライマーなどほぼ居ないだろう。
少なくともロッククライミングという分野の全体から見れば「コンバインドルールのコンペ」というのはとても限定的で小さな一部分だ。
その「限定的な競技方式」によって決められた勝者が「クライミング界全体の王様」だと思われるのが気に食わねえ!ってことだ。



勿論この「コンバインドルール」というのが、その勝者が少なくともスポーツクライミング界の勝者にふさわしくなるように苦心して作られた競技方式であるというのも重々承知している。オリンピック金メダリストが、ニアリーイコールでスポーツクライミング界の王者であるというくらいまでなら100歩譲って納得できなくもない。

・まとめ(個人的感情の吐露)

僕はボルダリングが大好きだ。
ただし僕が好きなのはボルダリングの非競技的部分だ。
コンペが嫌いだ!コンペなどボルダリングの本質ではない!と言いたいわけではない。
でもやはり個人的にはコンペ自体そんなに好きでもない。
例えば高校の部活でボルダリング部に所属して、3年生の最後のインターハイで全国大会で優勝することをこのスポーツの最終目標に設定されていたとしたら僕はボルダリングをこんなに好きにはならなかっただろうと思う(他の競技と同じくらい、妥当な燃え方をして妥当な燃え尽き方をして、そして引退しただろう)。
子どもの頃、遊びだったり競技の真似事だったりゲームだったりをして、失敗したり負けたりするたびに「もう一回!」「もう一回!」と喚き、自分が勝つまで続けようとする鬱陶しいガキがあなたの周りにも一人はいたと思う(そして勝ったら勝ったで、面白いもんだから「もう一回!」だ)。
僕はそんなガキだった。そして本質的には今でもそんなガキだ。
「ちゃんとした競技」ではその「もう一回!」ができない。許されない。
でも非競技的ボルダリングではその「もう一回!」ができる。
むしろ「もう一回!」をいくつもいくつも積み重ねることでこそ達成に向かう。
僕がボルダリングにのめりこんだ本質的な理由っていうのはそこにあるんだと思う。
だから競技としてのボルダリングに導入された「アテンプト」という概念が僕は全く好きじゃない。
手も足も出ない課題に100回も200回もトライしたい。
スタートも切れないし一個もムーブバラせない課題に年単位で打ち込みたい。
一日中ワンムーブの探りに費やしたい。
尽くことのないトライアンドエラー。
その先にある達成。
「勝利」の反対には「敗北」が用意されている。
でも「達成」の反対には何があるだろう?
意思さえくじけることなく挑戦し続けさえすれば、何度失敗してもそれは達成への道のりでしかない。
そういったことを実感させてくれるから、僕はボルダリングが好きなのだ。
その、ボルダリングの僕が好きな部分が、オリンピックという大きな輝きによって、多くの人の目から映らなくなってしまうんじゃないかということが僕は不安(あるいは不満)なのだと思う。

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