2017年12月20日水曜日

「やりつづける」ということ

今日(12/20)

Gingaが登れた。

登れるだろうという確信は先月くらいからあった。

でも

「登ることが可能である」ということと

「実際に登る」ということの間には

厳然とした隔たりがある。

その隔たりの間には、

確率という溝があったり、自己の精神のせめぎという障害があったり、
肉体の疲労や瑕疵という重石があったり、天候による妨害があったりした。

登れるのは明日かもしれないし、ひょっとしたら半年後になるかもしれない。

そんな状態が何日か続いていた。

ただ、たまたま今日登れた。

そんな感じだった。





正直、

終盤の「和」のパートがこんなに辛くなるとは思っていなかった。

練習段階ではもう「和」に合流したら勝ち確。落ち着いて、クールに最後の締めをこなすだけだと思っていた。

ところがどっこいそんなに甘くありません。

「和」のスタート地点についたころには右の上腕が微かに震えはじめ、

「和」の初手を止めたところで右手の指は開きそうになり、

「和」の二手目のポッケはガバポッケと認識していたはずなのに全然持てている感じがしなかった。

リップを叩いたあたりから、ヨレとかじかみによって指の感覚は完全に失われており、
緊張と恐怖から身体は硬直していた。

最後は本当に気合いでしかなかった。

声を張り上げて精神を鼓舞して、身体が今まで練習してきたムーブをなぞりきることをただただ信じるだけだった。

右足のヒールが切れるかもなんて微塵も考えなかった。
靴に対して100%の信頼をするしかなかった。


結果、登れた。


うん、本当に

「登った」

という感覚よりも

「登れた」

「登らせていただいた」

という感覚。

「自分の実力でこの課題をねじふせました」

なんて口が裂けても言えやしない。


(なんか毎回こんなこと言ってる気がする)


まあ、そんなもんだ。

それが僕のクライミングだ。

一生懸命背伸びして、分不相応な課題に打ち込んで、

実力も、技術も、根気も、時間も、道具も、運も、何もかも全部総動員して、

なんとか登る。

それでいい。


こういう感覚って、コンペティター的なクライマー達からするとあんまり理解できないのかもしれない。

彼らにとって【課題を登る】っていうのは

あくまでそれを通じて

「自己のクライミング能力を高める」
あるいは
「自己のクライミング能力の高さを証明する」

ための【手段】であって。

だから過度な打ち込みや、時間と手間をかけることを嫌う。

打ち込みまくれば慣れてきて登れてしまうから。

そうなると自分がその課題を登れたのが実力だからなのかどうかが解らなくなっちゃうから。

そっちのほうが多分、
最終的には強くなるんだろうな。

コンペとかでも勝てるんだろうと思う。


でも僕はそうじゃない。

【課題を登る】

ってことが、ただただ【目的】になる。

ただその課題を登りたい。

登ったから「俺つええだろ」が言いたいわけでもないし(まあちょっとは言いたいけどさ)

その課題を登ったことをトレーニングの成果として持ち帰りたいわけでもない。

だからズル賢いくらいに一番楽なムーブを探るし、
色んな靴を試して一番適したのを選ぶし、
時間をかけて自動化したりすることを、なんの衒いもなく実行する。

なんだろうね、

そうやって、地道な作業で「不可能」を「可能」にしていく過程が多分好きなんだと思う。


まあ

なにが言いたいかっていうと、

僕は相変わらず弱いままで、

でも

弱いままでも、登ろうと思い続け、登ろうとし続けさえすれば、自分の実力より上の課題だって登れるんだぞってこと。

「だからみんな1つの課題にもっと打ち込めや!」
と言うつもりは無いけど、

10日以上打ち込んだ課題が登れた瞬間の脳汁ドバドバ感はみんな一度は味わったほうがいいよ、とは思う。

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