どこまでがルールで、どこからがマナーなのか。
どこまでが個人的なこだわりで、どこからが普遍的に共有されるべき良識なのか。
クライミングというスポーツはそのあたりが非常に曖昧でわかりづらい。
そもそも、クライミングをスポーツと呼ぶか否か。
呼ぶにしてもどこからどこまでをスポーツクライミングと呼ぶべきなのか。
スポーツクライミングの中でも、
どこからどこまでがボルダリングで、
どこまでがフリークライミングで、
どこからがエイドクライミングで、
どこからが登山で……とか。
とかく様々な領域が曖昧であると言える。
自然でのクライミングにはルールブックは無い。
マナーも明文化されていないもののほうが多い。
だからこそそういったものに対して慎重にならなくてはいけない。
それらを破るということについてもそうだし、
それらを守るということについてもだ。
ルール違反、マナー違反は許せない。
しかし自分がマナーだと思っている行為は、
単に自分(と自分の周囲の人達だけ)の個人的こだわりでしかないのかもしれない。
あるいは自分にとって正しいルールと思っていることが、
他人にとってはマナー違反に映っているかもしれない。
いくつかの事例を考えてみた。
(いずれも『屋外でのボルダリング』の場合)
それに対して、自分だったらどう思うか
下記の選択肢から選んでみて欲しい。
①守らなければいけないルールだ
②守るべきマナーだ
③個人のスタイルとしてなら尊重する
④やるならやっても良い
⑤賛同できない行為だ
⑥断固止めるべきだ
事例1
ホールドが尖っていて危ないので他のクライマーが怪我をしてはいけないと思い、ヤスリでフチをなだらかにした。
事例2
グラついていて今にも壊れそうなホールドがあった。
登っている途中に壊れては危険なのでいっそ事前に破壊しておいた。
事例3
ボルダリング中に大怪我をしては自分だけでなく他のクライマー達にも迷惑がかかるので、
クラッシュパッドは充分な量を敷く。
事例4
人工物であるマットは美しくないのでボルダリングの際はマットは敷かない。
事例5
岩を汚すのはいけないのでチョークは使わない。
事例6
難しい課題なので、登るためにロジンがたっぷり入ったチョークを使用する。
事例7
柔らかい動物毛のブラシでは岩についたチョークがしっかり落ちないので、プラスチック製の硬い毛のブラシでしっかり強くブラッシングする。
事例8
雨上がりでホールドが濡れていた。早く乾かすためにガスバーナーで火をあてるのが効果的だ。
事例9
既存課題の直下に切り株があった。危険なので地面を掘り起こして切り株を撤去した。
事例10
課題を登った後は、なるべく自分が岩に付けたチョークはブラッシングして取り除いておく。
事例11
課題上部のホールドをさぐるためにロープや脚立を使用する。
事例12
エリアに行く際、違法駐車や無断駐車はしない。
事例13
スポッターとして、落下したクライマーをしっかり抱きとめて地面に落とさないようにする。
事例14
スポットとマットを最大限信頼してジムと同じように勇気を持ってダイナミックに登るべきだ。
事例15
ホールドが解り易いように蛍光塗料でティックマークをつける。
まあ、こんなところで。
僕個人の意見としては
事例1…⑥
事例2…⑥
事例3…②
事例4…③
事例5…③
事例6…④
事例7…⑤
事例8…⑥
事例9…⑤
事例10…②
事例11…④
事例12…①
事例13…⑥
事例14…⑤(場合によって③)
事例15…⑥
といったところ。
恐らく大半の人が
これとは完全には一致しないはずだ。
⑥と①をつけたものに関しては大半の人も同じように⑥か①を付けてくれていると思うが、
必ずしもそうじゃないかもしれない。
僕はそれなりの期間クライミングをやっているし、
マナーや安全管理については気を配っているつもりだ。
それでも、他のそれぞれの「良識あるクライマー」達と完全に同じ価値観を共有できるとは思っていない。
こういったものは結局のところ、何にどれだけ敬意を払うことができるかということだと思う。
クライミングというものに対して
岩に対して
自然に対して
先人に対して
課題に対して
他人に対して
スタイルに対して
地域に対して
道具に対して
自分に対して
……
岩や自然に最大限敬意を払っているが他人に対して傲慢な人も居る。
人には敬意を払うが、岩を単に登るための物体とだけ考えるような人も居るだろう。
近頃話題になっているチッピング事件についても、
それを行った人はなんの悪気もなかったのかもしれない。
むしろ彼らなりの善意や正義に基づいていたのかもしれない。
彼らには、ただただ岩や課題らに対する敬意が無かった。
そういうことなんじゃないかと思う。
僕はもともとクライミングジムでクライミングを始めた。
岩に初めて行ったときには自然や岩に対する敬意なんてほとんど無かった(恐怖はあったが)。
ただ登る場所がジムから屋外に変わっただけという感覚だった。
しかし、その時僕を岩に連れ出してくれた先輩・師匠達の指導や、彼らの振る舞いから、
岩に対する敬意を学び、それを育み始めることができた。
近頃は手軽にクライミングを始められるジムが増えてきた。
丁寧な解説付きのトポも多く発売されている。
初心者が初心者のまま初心者だけで、ジムから岩に飛び出していく、
ということがたやすく可能な環境になりつつある。
これが良いことなのか悪いことなのか、ハッキリ言うことはできない。
しかし危険である、ということは言える。
僕もそうだったし、岩に行き始めのころに岩に対して敬意を持てと言われてもとてもじゃないが無理だ。
それを持たせてくれるのはやはり指導者の存在。
尊敬すべき指導者に対し敬意を払い、それを通じて、その指導者が敬意を払っている対象にも同じように敬意を払う。多くの場合そのようにして考えは変化していく。
急激なクライミング人口の増加は、
指導者となるべき存在と、学ぶべき初心者の割合の不均衡を生じさせる(あるいはすでに生じさせている)のではないだろうか。
本来、敬意というものについては大きさも形式も誰かに強要することはできない。
命じられたところで簡単に感情は変化しない。
敬意というのはゆるやかに生じるものだと思う。
これから岩に行き始めようと思っているクライマー、
岩に行き始めたクライマー、
クライマーじゃないけどなんとなく岩に行こうという人、
力や技術、グレードを追い求めるのもいいが、
それと同時に、様々なものに対する敬意も育んでいって欲しい。
高難度課題を登ったところで賞金が出るわけでもない。
審判が居て、勝ち負けを判定して、勝者に栄誉が与えられるわけじゃない。
ただ、
その岩を、課題を登れて嬉しい。
それだけ。
名誉みたいなものを求めてるんだったら、いかさまなんてたやすくできる。
「この間一人で岩に行って初段の課題落としてきたぜ」
と言ってしまえばそれを嘘だと判定することなんて他人にはできない。
だからこそみんな正直になる必要がある。
登れたかどうか、を最終的に判断し、記憶するのは自分の心だけだ。
誇りを持って欲しい。誇りが無ければ人間は正直にはなれない。
そしてその誇りは敬意から生じると僕は思う。
「クライマーたるもの、敬意を払え」
長々と書いたけど、言いたいことを要約すると、このひとことになる。
偉そうに語ったけれども、結局のところこれも僕個人の感想であり願望でしかない。
僕のスタイルでしかない。
この考え方にまったく賛同できない人や、不快に思う人も居るかもしれない。
でも少なくとも僕はこの考えを曲げずに持っていきたいと思っている。
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