を挙げようと思えば、枚挙に暇が無いほどなのではあるが、
僕の知人であり、その尊敬するクライマーの一人が昔、こんなことを言っていた。
「岩をリスペクトすれば自ずとホールドは見える」
あまりの“決めセリフ感”に、
聞いた当初はネタ的に面白がっていたんだけど、
これは
改めて良く噛み締めると、真に名言だと思う。
この間、
神戸にて
「電池切れ」を登った後、
「フルチャージ(四段)」
に挑んでいたのだけれど、
ムーブのばらしは早々に終わったことで、すぐに登れるだろうと思っていた。
しかし繋げると電池切れパートで落ちる落ちる。
ラスト1手2手くらいで何度も落ちる。
何故落ちるんだ?
という自問が続く。
「少し手数が増えたところで、所詮は二段のパート」
「二段ごときのパートで落ちるのは何故なんだ?」
と、
そのように自分の気持ちが成文化されて心中で発せられたとき、
その理由が判明した。
まさに、
それが原因だった。
そんな風に思ってしまっていることこそが落ちる原因に他ならなかった。
「二段ごとき」ってなんだ
「所詮は二段」ってなんだ
最近は確かに三段とか四段を登ってはいた。
ただそれは、
観察と洞察、思考と試行を繰り返して、岩に自分を合わせて、
最適解を求めに求め、その上で最大限の気合いを込めて、
どうにか「登らせてもらった」というだけにすぎない。
それを忘れて、
あたかも自分の実力で三段・四段をねじ伏せたとでもいうような、
そんな「驕り」を持っていた。
だから「二段ごとき」なんて言葉が出てくる。
違うんだぞと、
自分の実力そのものはまだ二段を軽んじれるほどではない。
そう、しっかりと思い直したとき、
冒頭の言葉を思い出した。
今の自分に足りないのはリスペクトだ。
岩に敬意を払い、課題に敬意を払う気持ちだ。
岩に登らせてもらうという気持ちだ。
そうやってもう一度二段のパートとじっくりと向き合って考えたら、
始めのうちには見つからなかった色々なものが見えてきた。
雑に登っていたら見えてこないものだった。
自分よりフィジカルがあって、自分より保持力の強いクライマーだったら、
そんなもの見えてこなくても登れるだろうと思う。
でも自分はそうじゃない。残念だけどそこまで強くない。
驕りを捨てて、
挑戦者の気持ちを持って臨む。
なんとか登れた。
いや
登らせてもらった。
まだ自分は四段の実力を持つに至っていない。
そう改めて思い知らされた。
しかし、
だからこそ今はこうして登れたことを喜ぼうと思う。